敬愛なるベートーヴェン

題名敬愛なるベートーヴェン(COPING BEETHOVEN)
監督アニエスカ・ホランド
出演エド・ハリスルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)、ダイアン・クルーガー(アンナ・ホルツ)、他
制作イギリス、ハンガリーの合作(2006年12月9日公開)

総論を述べるならとても良かった。思わず涙ぐんでしまう場面があるほど。観に行こうかどうしようか迷っている人は、是非とも見に行くことを薦める。この興奮と感動は、あとでDVDで見ても得られまい。あまり多くの劇場では上映していないのが残念だが。

ベートーヴェンは若い時期から難聴に悩まされ、晩年にはほとんど聞こえなかったといわれる。それにも関わらず傑作をものにし、指揮者までこなしたというのは、彼の才能と努力に拠るのだろうが、それを実現せしめたのは、ある女性の存在であった、という設定はとても興味深い(むろん、架空の話である)。「サルでも描ける漫画教室」によれば、作品がヒットするかどうかを決めるのは「設定」にかかっているという。この設定は見事である。

それにも関わらず、ストーリーは平凡で退屈だった。「第九」の初演を4日後に控えた日に、写譜師(コピスト)として音楽学校の主席であるアンナが派遣されてくる。女なんかと激怒するベートーヴェンだが、すぐに彼女の才能に気づき、最後は彼女にすがる……というお話。

第一に写譜師の仕事はベートーヴェンが書き殴った楽譜を清書することなのか? だったら、必要なのはごく基本的な楽典の知識であって、特別な音楽の才能は必要ない。ワープロが一般的になる前は、よく会社で、他の社員の書いた企画書や報告書などを清書する役目の人がいた。そういう人は、経営的な知識も営業的な知識も文章力も必要なく、ちょっと字のきれいな女性が務めることが多かったはずだ。ベートーヴェンは写譜師に何を期待していたのだろう。僕は当初、彼が即興で演奏した音を楽譜に書き留めるのかと思った。レコーダーのない時代には、こういう仕事は重要だったと思うのだが。

第二に、「第九」のような曲を演奏し歌うためには、特に初演であれば、相当な練習が必要なはずである。4日前になっても曲が完成していなかったら、どのみち間に合わないだろう。逆に、ちょっとした手直し程度のことであれば、演奏者たちに口頭で伝えておのおのメモしてもらえばよい。こんな直前になって登場する写譜師の役割は何なんだろう。

第三に、耳が悪いために満足に指揮ができないベートーヴェンを助けて、アンナが彼の耳の代わりになって指揮を(こっそりと)行ない、彼女の指揮を見てベートーヴェンが指揮棒をふるう、という二人羽織のようなことをするのだが、いくらなんでも現実離れし過ぎている。アンナは作曲が専門で指揮の経験はないはずだし、仮に少々の経験があったところで、所詮は学生である。当代最高の楽団の指揮は、そう簡単には務まらない。楽譜を読み込んで、どういう曲かは理解していたであろうが、演奏の練習風景を見に行った様子もなく、ぶっつけ本番でうまくいくわけがないではないか。

ある作家の高弟が師匠そっくりの作品を作るのは、さほど珍しいことではない。たとえば「HOTEL」という漫画は、作者の石ノ森章太郎氏が亡き後も連載が続き、絵柄に違和感はなかった。自分自身のオリジナリティがなければ自分の名前で世に出ることはないが、こうした弟子は、作家を支える存在としてかけがえのないものであろうと思われる。たとえばスランプに陥った作家にアドバイスをしたり、アイデアを出すのに協力したりすることがあったかも知れない。

アンナをそのような存在として位置づけることもできたのではないか。しかし、第九初演の時点で、アンナとベートーヴェンは知り合ってまだ4日なのである。

また、ベートーヴェンがアンナの恋人を軽蔑し、衆人の前で罵倒するのは、彼の仕事ぶりに魂がこもっていなかったことを憤っているのか? それとも手元に置いておきたいアンナの心を奪っていることに妬いているのか? 意味不明。ベートーヴェンが叩き壊した橋が結局どうなったのかも示されず、中途半端なエピソードに感じられる。

ベートーヴェンの部屋があまりに散らかっているため、アンナが雑巾がけをするのだが、その時、四つん這いになった彼女の胸元から(意外に大きな)胸が見える。また、部屋にやってきたベートーヴェンの不良の甥・カールに、スカートをめくられる場面もある。この時も短時間だが彼女の太腿がはっきり見える。こうしたサービスカット(?)も、物語の主旨を考えれば不要であろう。

とまあ、批判的なことを書き連ねたが、このように、ドラマには改善の余地が多々ある。だが、そんな瑕(きず)など全く気にならない。何しろ全編を通じて、ベートーヴェンの曲が流れるのである。バックグラウンドもすべてベートーヴェンである。こんな贅沢なことがあろうか。それだけで十分に元が取れる。

そして第九の初演。大画面を通じて演奏を見、広い映画館に響き渡る曲を聴く。この映画の真骨頂はこの場面にあると言っても過言ではない。不良のカールがこっそり聞きにきて、涙にくれる姿はちょっと臭いと思ったが、実は僕自身がその場面で目を潤ませているのだった。あの音楽には、それだけ人の心をゆさぶるものがあった。そして、これは劇場へ行かなければ得られないものだ。

印象的なエピソードを。

ベートーヴェンの住むアパートの隣に住む老婦人。部屋には窓がなく、ベートーヴェンが外出した時だけ、ベートーヴェンの部屋のドアを開け放して部屋にわずかな光を入れている。そんな暮らしに同情したアンナが、どこかもう少しましなアパートに引っ越すことは考えないのかと問うと、「引っ越すですって? ベートーヴェンの隣に住み、ベートーヴェンの新作を誰よりも早く聞くことができるのよ! ウィーン中がうらやましがっているわ!」

第九初演の演奏が終了。音楽がとまった瞬間、ブズーというような低い、耳障りな音がする。観客は興奮して立ち上がり、万雷の拍手を鳴らしている様子が映されるが、叫び声も拍手の音も全くしない。これはベートーヴェンにはこのように映っているということを表現したのだろう。最高に盛り上がったところで、改めてベートーヴェンにとってのシビアな事実を突きつけられる。この演出は見事だった。

ところで、アンナが自分が作曲した曲(の楽譜)をベートーヴェンに見せる場面がある。ベートーヴェンは楽譜を見ながら初見でピアノを演奏し、「おならの歌だ」などと侮蔑的な評価を行ない、彼女が泣いて外へ飛び出していく場面があるのだが、この曲はかなり印象的だ。小さなピアノ曲だが、名曲といっていいと思う。楽譜があれば、少し練習すれば弾けそうな気がする。こんな曲がサラリと弾けたら楽しいだろうな。僕は耳コピの能力はないから、楽譜がなければ夢の話だが。

リンク

プロのライターによる評。ていねいで情報量が多い。

手短に。言い得て妙。

女性ならではの視点? 素敵な感想。

そうか、監督は女性なんだ。いいところを見ている。

配給は増えるのかな。

この人の感想は自分の見方にかなり近い(文章の書き方はかなり違うけど)。共感するところ多々。

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