雑感
龍馬は精進の甲斐あり、見事、北辰一刀流の免許皆伝となる。これをもって江戸での剣術修行は終わり、土佐へ帰ることになる。佐那は龍馬を慕っていたと打ち明けるが、自分は江戸には残れない、土佐に待っているものがあるという。えっ、二度目の江戸滞在はもう終わり? 御前試合はしないのか? 土佐の山内容堂の主催する御前試合で優勝したために、龍馬の剣名が一気に轟いたのではないか。特に、桂小五郎(当時、随一の剣客と言われていた)がのちに長州藩の重鎮になった時に、一介の浪人である龍馬をかくも信頼し、親交を結んだのは、この御前試合で龍馬に負けたことも大きかったのではないかと見る。これを抜かしたのはどうか……
一般に、幼馴染の加尾は江戸に出るまでは仲良くしていたが、江戸に出てからは佐那に心を奪われたことになっている。乙女への手紙に「佐那は加尾よりかわいい」と書いていたこともそれを裏付けているのでは。そして、のちに佐那は「私は龍馬様の婚約者でした」と言って一生を独身で過ごしたのだから、それ相応の付き合いがあったはず。本作では、佐那の一方的な片思いで、龍馬は加尾との約束を守り、土佐へ戻って求婚する……というように話が進む。
さて、江戸での修業を終え、ひとかどの人物になって土佐へ戻ってきた龍馬は、加尾にプロポーズ。ようやく相思相愛となり、二人の恋心が実った……かに見えたが、そうは問屋が卸さない。
ひと足先に土佐へ戻っていた武市は、いよいよ動き出す。幕府の井伊直弼はついにアメリカと通商条約を結んでしまう。今の幕府に任せておいたら日本国はとんでもないことになる。幕府を糺すためには土佐藩が強くなること、土佐藩が強くなるには、開国派の吉田東洋に権力を握らせておいてはいけない。と、東洋のために冷や飯を食うことになった柴田備後に近づき、東洋失脚をたくらむ。そのためには武市らが力を持ち、土佐に攘夷の嵐を吹かせること、そのためには……と柴田備後と結託し、朝廷内の攘夷派、三条実美の様子を探るため、京に嫁いだ山内容堂の娘の付き人に自分らの息のかかった女人を送り込もうとする。そして、平井収二郎はその役に妹の加尾を推挙するのだ。
あー、長い。
やっと龍馬の嫁になれると思ったのも束の間、京へ行くというのはむろん龍馬とは一緒になれないという意味であり、おまけに二度と土佐の地を踏むこともできなくなるという。その話を聞いた龍馬は、先週に引き続き再び武市に談判に行くが、既に加尾の名を告げてある以上、断わることはできないという。それでも龍馬の話を聞いて心を動かされた武市が、いったん別の女に変えようとするが、柴田備後から、今更変更するなら誰かが責任を取って腹を切れ、と言われてしまう。そして収二郎は、どうしても加尾が承服しなければ自分が腹を切るといい、泣く泣く加尾は京都行きを承知する……。
現代の感覚で推し量ればひどい話だということになろうが、いくらなんでもそれはないんじゃないか。二人は結婚の約束をしたというが、当時の慣習では、当人同士がいくら約束したところでそれは婚約にはならない。しかるべき人を間に立てて、親(または代わりの親権者)に申し込みをし、受諾が得られて初めて婚約である。龍馬は加尾の了解が得られたことで婚約者気取りだが、逢引きなどしている暇があったら、兄の権平に頼んでさっさと正式な結婚の申し入れをすべきだった。もっとも、平井家が簡単に承諾するとは思えないが、承諾が得られないなら、どのみち一緒になることはできなかったのだから同じである。
また、スパイうんぬんは措くとして、下士の娘が殿様の娘の下女などになれるものなのか。もしなれるのなら、それはかなりの出世ではないのか。京で暮らしているうちに、誰か高貴な方に見染められでもしたら、一生を幸福に暮らせる。特に、上士・下士の区別のうるさい土佐で一生虐げられて生きるより、京の都でこれからの人生を生きる方がよほどいい……と語った収二郎の気持ちに偽りはないだろう。当時の感覚なら、むしろそう考えて当然だ。龍馬に対する好き嫌いは別にして、いくら裕福な家庭でも、龍馬は所詮は下士。だから、収二郎にしたら、妹を人身御供に差し出したわけではなく、妹の幸せを願い、嬉々としてこの役目を申し出たはずだ。
ところが、ドラマはそう描かれていなかった。
当時の事件は、あくまで当時の倫理感覚に基づいて描いてほしい。今回はちょっとずれがひどかったと思う。