窓の向こうに

月に数回映画館に通う程度の映画ファンです。自分が見た映画やドラマの感想を書いています。

テーマ、映像、役者、日本映画らしさに堪能「最後の忠臣蔵」

これは観たかった。観て良かった。

題名最後の忠臣蔵
監督杉田成道
原作池宮彰一郎
出演佐藤浩市寺坂吉右衛門)、役所広司(瀬尾孫左衛門)、片岡仁左衛門大石内蔵助)、桜庭ななみ(可音)、安田成美(ゆう)、笈田ヨシ茶屋四郎次郎、豪商)、山本耕史(茶屋修一郎、四郎次郎の息子)、伊武雅刀(進藤長保)、風吹ジュン(茅野きわ)、田中邦衛(奥野将監)、他
公式サイト映画『最後の忠臣蔵』公式サイト
制作日本(2010年12月18日公開)
劇場ワーナーマイカル海老名
ここのところ邦画づいているが、これは堪能した。だいだい僕は忠臣蔵が好きで、いろいろなリメイクを何度見ても飽きない方だが、これは出色の出来。

内容紹介

吉良邸に討ち入りを果たしたのは47人だが、切腹を仰せつかったのは46人。途中で寺坂吉右衛門が抜けているのはもちろん知っていたが、討ち入り前夜に瀬尾孫左衛門が逐電していたのは知らなかった(瀬尾孫左衛門という名前も初めて聞いた)。世間では命惜しさに逃げ出したものと思っていたが、実は大石内蔵助の密命を帯びてのことだった……

以来16年。寺坂吉右衛門は苦労を重ねたが、ようやく使命を果たし、あとは浅野内匠頭の17回忌を迎えるばかりと京に戻ったところで瀬尾孫左衛門の姿を見かけるところから物語が始まる。

瀬尾孫左衛門は骨董品の売買で身を立てつつ、あばら家で女の子(可音)を育てていた。この時の鈍ちんぶりが笑える。可音は、孫左の帰宅が遅くなると不機嫌になり、食事の時に下座に就くと隣に座れといい、そろそろ年頃だから嫁にというと、「嫁になど行かぬ。孫左とずっと暮らす」と言い張る。全くもってストレートだが、豪商茶屋の跡継ぎ・修一郎からプロポーズされ、好きな人がいるから考えられないという答えが孫左衛門の耳に入ると、孫左衛門は驚き慌てる。好きな人とはいったい誰だ、と。「お前だろうお前!」と誰もが突っ込むところだが、本人は本当に全く気付いていなかったらしい。

寺坂吉右衛門、瀬尾孫左衛門とも、必ずしも世間は厚意的ではなく、経済的にも困窮を極める中、とっくに死んでしまったかつての上司の言いつけを守り使命を果たし続ける姿は、やはり日本人の心を打つものがある(自分には絶対に無理だが)。

使命を果たしたあと、瀬尾孫左衛門が大石内蔵助の位牌に向かって作業報告をするのを見て、まさかと思ったが、果たして切腹してしまうのだった。しかし、人間は腹を切っただけでは死なない。何十時間も苦しみ続けるという。そこへ吉右衛門が駆けつける。間に合った! せめて盟友として、その手で解釈してやってくれ……と思ったのだが、孫左衛門はチラと吉右衛門を見ると「介錯無用」とつびやき、喉をついて絶命する。彼にとっては主君のあとを追うことが、最大にして最後の忠義なのだ。

雑感

  • 佐藤浩市役所広司桜庭ななみ、安田成美の4人が中心の芝居だが、4人それぞれに個性的かつ芸達者な役者で、見事だった。特に若い桜庭ななみが劣らず存在感を放っていたのは驚いた。幼いゆえの我儘放題なところと、由緒正しい武家の娘としての気品あふれる部分が同居しており、素晴らしかった。公式サイトによれば、クランクインの前にお琴や行儀作法などはかなり特訓して臨んだらしい。撮影が始まると、毎日着物を着て通ったとか。日々「可音」を実践していたというわけだ。最後まで正座は慣れなかったそうだが……
  • 木々や草、花をはじめ、要所要所で映される自然の描写が素晴らしい。こういう景色の素晴らしさ、美しさを描くのも映画のひとつの役割とも思うが、サスペンスとかアクションなんかだとなかなか難しい。本作ではこうした景色がじっくり堪能できる。
  • 人形浄瑠璃曽根崎心中」が大きな演出事項になっている。修一郎が可音を見染めたのも、孫左衛門が吉右衛門の存在に気付いたのもこの舞台の場だが、死をもって最高の美とし、それに向かって進む現実のストーリーと芝居のストーリーを掛けているわけだ。道ならぬ恋に落ちた男女の心中と、主君のあとを追っての切腹ではだいぶスタンスが違うようにも思うが……
  • ゆうは、なぜ突然やってきた見も知らぬ男の生活に力を貸してやり、その養女のしつけまで買って出たのか、そのあたりの経緯が不明。
  • 16年前の回想シーンが何度か出てくるが、佐藤浩市役所広司も現在と全く変わらない顔(髪型や髭の有無は違うとしても)なので失笑した。現代は、写真はいくらでも修正できる技術があるのに、動画の修正はできないのか? しわをちょっと消すだけで、ずっと若々しくなるだろうに。
  • いろいろとよくできた映画だが、大石内蔵助から指示を受けた瀬尾孫左衛門が「とんでもございません」と答えたのにはがっかりした。21世紀では誤用が定着した感のあるこの表現だが、まさか江戸時代の武士は言わないだろう。