NHK大河第6話「西海の海賊王」(再放送)

重要な回なので再放送を見た。

やっぱり今回ばかりは納得がいかないなあと思ったのは、まず清盛が兎丸と意気投合する場面。兎丸が、今は朝廷の世の中で自分は「悪」だが、自分は海賊王となり世の支配者になろうと思っている。自分が権力者になれば「義」は自分にある……という意味のことを言い、清盛が「それは面白い」というくだりだ。

兎丸の言い分は覚えがある。1976年だからかれこれ36年前だが、「風と雲と虹と」で平将門が同じようなことを言っていた。将門も朝廷からいいつかって盗賊や海賊を取り締まる側に回ったこともあるが、地元では民人たちと一緒に農耕を行ない、都では私利私欲しか考えていない貴族たちの振る舞いを見て、貧しい民人から本当に収奪しているのは誰か、それは「公」ではないのかと考え、関東の地から国司を負いだし、律も令も無視して独立国家を築こうとしたのである。ここでは「価値観の逆転」がキーワードとなる。将門は公があって民人がいるのではない、まず大地があり、そこで働く人がいたのだ、都に公ができたのはそれからずっと後のことだと説く。

兎丸の説はそれと似ているが決定的に異なるのは、彼が奪うだけで何も生産しないということだ。いつの世でも、治まる御代というのは、食糧や生活手段、生産手段などを作る人が守られ、十分な報酬を得ているかどうかが基本中の基本になる。盗賊も海賊も、不公平な富の再配分にわずかながら風穴を開けることはできるかも知れないが、それだけで天下を取ることはできない。今の(清盛の時代の)政治家は腐っているかも知れないが、どんな立派な政治家でも海賊は取り締まるだろう。

一度目の戦闘では、海賊たちは討伐隊の小舟に大挙して乗り込んでくる。彼らがどうやって親船に引き揚げたのかがわからない。気が付いたら全員戻っていた。が、ここでは小競り合いは起きたものの大戦闘には到らずお互いに引き挙げているので、船に乗り移ってきた人を一人二人捕まえておくこともできたのではないか。不慣れな海とはいえ、それなりに戦闘経験もあるはずの平氏軍が何もできなかったのはいかにも解せない。

逆に、二度目の戦闘では、近づきながら火矢を射たのはうまいやり方だ。船は、壊れるか燃えるかしたら逃げるしかない。大砲のような破壊兵器を持たない当時は、燃やすのは有効な手段だ。しかし一向に船が燃える様子はなく、平氏軍もどんどん唐船に乗り移ってくる。火矢を射たのは何のためだったのか? また、大きな船に下からよじ登って乗り込もうとしたら、上からいい標的にされるのは明らか。しかし、矢を射掛けた段階で海賊たちも気づいているのに、何もせず大軍を船に招き入れてしまったのはなぜか。乱戦に弱いのは、彼らは所詮は訓練された軍人ではなく、食い詰めた農民や漁師たちの寄せ集めだからと思えば納得もいくのだが……

昨年の大河(お江ね)は戦国時代を描きながら戦闘場面を描かない不思議な戦国ドラマであったが、今年はちゃんと描こうとしているようだ。それなら、納得のいく戦にしてもらいたい。今回は、人間ドラマとしては見せ場が何か所かあり、よくできていると感心する側面もあるのだが、それだけに残念だった。