窓の向こうに

月に数回映画館に通う程度の映画ファンです。自分が見た映画やドラマの感想を書いています。

ヒッチコックを観た!「レベッカ」

「午前十時の映画祭」。「サンセット大通り」のさらに10年前の作品。映画のタイトルだけは知っていたが、どんな内容か全く知らなかった。なるほど、こういう話でしたか。特別何かに感動したとはいわないけど、普通に面白かった。70年以上も前の作品を普通に楽しめるということに驚く。

題名レベッカ(原題:Rebecca
原作ダフネ・デュ・モーリア
監督アルフレッド・ヒッチコック
制作総指揮デヴィッド・O・セルズニック
出演ジョーン・フォンテイン(わたし)、ローレンス・オリヴィエ(マキシム・ド・ウィンター、マンダレー主人・「わたし」の夫)、フローレンス・ベイツ(ホッパー夫人、「わたし」の雇い主)、ダンヴァース夫人(ジュディス・アンダーソン、マンダレーの召使い頭)、ジョージ・サンダース(ジャック・ファヴェル、レベッカの従兄弟)、他
制作USA(1940年3月22日アメリカ公開、1951年4月7日日本公開)
劇場立川シネマシティ

粗筋

「わたし」はホッパー夫人の付人としてモンテカルロ(南仏)に滞在中にイギリスの富豪マキシムと知り合い、結婚することになる。マキシムにはレベッカという妻がいたが、一年前に事故で亡くし、今は一人身だった。

「庶民のあんたにマキシムの妻なんて務まりっこない」とホッパー夫人からありがたい(?)忠告を聞いた「わたし」だが、マキシムに連れられて行ったマンダレーの屋敷は聞きしにまさる豪邸だった。執事らや小間使いやらが何十人もいて、家の中で迷子になるほど広く、周囲の敵意や軽蔑の混じった視線にさらされつつ、暇を持て余す生活が始まる。

家の中のどこにいても、いつの間にか影のようにダンヴァース夫人が側にいて落ち着かない。どこもかしこも、前妻レベッカの空気が色濃く漂っている。使用人の中には「レベッカは美しい人だったがやさしさがなかった。あなたが新しい風を吹き込んでくれることを期待します」と言ってくれる人もいたけど、「わたし」はいつもレベッカと比べられ、非難されているような気がして仕方ない。

挽回のために仮面舞踏会を催すことにし、ダンヴァース夫人の提案に従って衣装を作ったところ、それはレベッカのもので、マキシムの怒りを買ってしまう。ここに到って、ダンヴァース夫人が「わたし」を憎み、陥れようとしていることがはっきりした。文句を言いに行くと、逆に、あなたはこの館の女主人にふさわしくない、出ていけ、と言い返される。その言い方は「わたし」のコンプレックスを巧みに刺激するもので、催眠術にかかったように、もう少しで窓から飛び降りるところだった。

その時、難破船が打ち上げられる。救出にマンダレーの人々がおおわらわ。その時、難破船の調査をしていた潜水夫が、レベッカが遭難したとされるボートも発見してしまった。中に、レベッカの死体も。そして排水用の穴が開けたままになっていたことがわかり、あれは事故ではなく、自殺か他殺だったというのだ。

実は人もうらやむ仲良し夫婦と思われていたレベッカとマキシムは仮面夫婦だった。美人で人当たりもいいと思われていたレベッカはとんでもない性悪女で、新婚4日目にそのことに気付いたが、家の対面を慮って決して離婚できないことをレベッカはわかっており、好き勝手に振る舞うことになった。使用人に色目を使い、はてはファヴェルを連れ込んで堂々と情事に耽る始末。その日、妊娠したことを告げられたマキシムは、殴って気絶させるとボートに乗せ、排水用の蓋を開けたまま沖に出してボートを沈め、身元不明の女性の水死体を妻だと言って、事故として処理していたのだった。

事故の真相をうすうす察していたファヴェルは、マキシムに、一生贅沢できるだけの金を要求。マキシムが突っ撥ねると、ファヴェルは警察署長に、自分はレベッカと通じており、レベッカは妊娠していた、そんな女が自殺するはずはない、あれは他殺だと告げる。殺されたとすれば、夫以外の子を身ごもった妻を殺す動機のある人は一人だけだ……

ファヴェルは、レベッカはロンドンの医者にかかっていたから、そこへ行って話を聞こうという。妊娠なんて、地元の医者には行かれないだろう、だからわざわざロンドンまで行ったのだと。ところが医師の証言――彼女は妊娠なんかしていません。それより彼女は癌で、既に手遅れでした。余命は数ヶ月だと告げると、そんなに長くは生きないと思うと答えた。あれは自殺の予告だった。

警察署長に「脅迫は失敗したな」と言われたファヴェルは、ダンヴァース夫人に「金を取り損ねた」と電話する。マキシムがマンダレーに取って返すと、屋敷が燃えていた。「わたし」の身を心配するが、「わたし」も含めて使用人は全員無事。ただしダンヴァース夫人だけが屋敷の中に。ダンヴァース夫人が屋敷に火をつけたのだ。彼女がレベッカのために縫った「R」の縁取りのある枕カバーとともに燃え散っていく……

感想

ミステリーとしては、二重、三重のどんでん返しがある。事故で死んだと思われていたレベッカは、実は他殺だった。と思ったら、自殺として決着がついた。マキシムだけが知る真相――余命が短いことを知ったレベッカは、わざと自分に殺させるように仕向けたのだ……。最初のどんでん返しで既に驚いたが、さらに引っくり返されたのはミステリーとしてはとてもよくできている。

しかし、本作はミステリーではなく、真の主人公はダンヴァース夫人で、彼女の内面の恐ろしさを描いたものだろう。それはある程度成功しているといえるが、物足りなさもある。

上司を尊敬し、その人のもと、自分が屋敷で起きる一切のことを取り仕切る、そのことに強烈な自負を抱いていた、というのはわからないでもない。しかし、「ミセス・ダンヴァース」というからには結婚していたのだろうが、彼女の夫は? 子供は? そういうものに対する気持ちというのは一片もなかったのか。

また、レベッカがファヴェルを連れ込んで情事に耽っているのは承知しており、レベッカが死んだあともファヴェルとは親交があったが、これも解せない。彼女にとっては屋敷の支配が大事で、レベッカの操やマキシムに対する気持ちなどどうでもよかったのかも知れないけど、不倫なんてどうみたって上品な行為ではない。それでもレベッカに対する崇拝の念にいささかの揺らぎもなかったのはなぜか? また、レベッカの死後もファヴェルが屋敷に出入りするのを許しているのはなぜか? 屋敷に出入りするのを許しているというより、ファヴェルはダンヴァース夫人が目的で通って来ているように思えたが……。

日本だと、江戸時代なんかだと不義密通は首切りの罪だったはずだし、現代でも当然、公になれば法に問われる。ファヴェルが警察署長に、レベッカと通じていて、子まで成していたことを得意になってしゃべっても、顔をしかめられるだけで何もお咎めがなかったもの理解できない。まあ、法に問えばウィンター家の恥が世間に晒されるから慮ったのかも知れないが、ここは一発、お灸をすえてほしかったところだ。

ダンヴァース夫人にとって、レベッカと比べて「わたし」があまりにも物足りなかったのはわかるが、ここで「わたし」を追い出した結果、マキシムがまた別の女性と結婚し、その人が「わたし」のように軟弱ではなく、ダンヴァース夫人をクビにしたりしたら困るのは自分である。この気が弱くて御しやすそうな「わたし」は、追い出すのではなく、親切なふりをして味方につけ、自分のコントロール下に置いた方が、末永く安泰だと思うが、そうは考えられなかったのだろうか。

「わたし」が、ドジっ子であることを示すため、花瓶を倒したり像を割ったりしてしまう場面が2回ある。昔も今も、ドジを示す演技に大差はないのだなあ。それとも、このエピソードが70年経っても使い回されているということか?

「わたし」には名前がついていなかった。映画を観ている時は気づかなかった。

ダンヴァース夫人が歩いて異動している描写が極端に少なく、気づくとそこにいる、という演出が不気味である。

Academy Award

第13回(1940年)アカデミー賞において作品賞を受賞。監督賞にもノミネートされていたが受賞に到らず。

追記

  • 他の人の感想をいろいろ読んでいたら、ダンヴァース夫人はレベッカのことを同性愛的な気持ちで好きだったのではないか、という意見を目にした。その根拠は、レベッカネグリジェをうっとりと「わたし」に見せるシーンである。なるほど、確かにそう考えると辻褄が合う。
  • 「わたし」に名前がついていない、というのはあちこちで書かれているが、「キャロライン」という名前だとしているものもあった。名前を呼ばずに済ませるのは至難の業だと思うが、どうだったかな……?