NHK大河第47回「残された時間」

粗筋

ジョーの命が長くないことを告げられるの巻。

雑感

毎回毎回、言いたいことはたくさんあるのだが、突っ込む気力もないというか、そういうレベルの作品になっちゃったんだなあという倦怠感が先に立って、まあ文句を言わずにおとなしく見ていましょうという結論である。

しかし今回の、「大学は他の人でも作れる」には心底、驚いた。これだけは聞きたくなかった。

「大学なんかいらねえ! 一年でも一日でも長く生きようと、なぜ思ってくれねえのですか? 私は襄を失いたくねえ。同志社は大事だ。日本は大事だ。だけんじょ、この世のどんなことも襄の命とは引き換えにはできねえのだし。大学は他の人でも作れる。襄でなくとも」

ジョーが大学設立のために命を削って奔走しているのを見て、少しでも長生きしてほしい、そのために無理をしないで安静にしていてほしいという気持ちからの言葉であるのはわかる。それにしたって言い方というものがあるのではないか。もし自分だったら、「大学は他の人でも作れる。襄でなくとも」と聞いた瞬間、これまでの人生はなんだったんだと絶望して心臓が止まってしまうだろう。

しかも、それをもっとも身近で、最大の味方だと思っていた人の口から聞かされるなんて。「同志社はジョーでなければ作れなかった」とどんなにか言ってほしかっただろうに……。いや、ジョーはそういうモチベーションで仕事をしているわけではないのかも知れないが、視聴者はそういうセリフを聞きたかっただろうに……。

尚之助はなんで死んだのか。いや、死ぬ前になんと言ったのか。人間の「誇り」は命より崇高だということを、オマエは尚之助から学んだのではなかったか。これでは尚之助も浮かばれないし、ジョーも浮かばれない。

もし自分が八重の立場だったら、「同志社はジョーでなければできなかった。ここまでやってこれたのはみんなジョーの力だ。でも、もうこの辺で人に任せてもいいのではありませんか。そうでなければ人は育ちませんよ」と言う。経験的に、優秀な人ほど自分でなんでもやりたがる傾向にあり、「それでは後進が育たない」という言葉は案外効く。

演出も脚本も、これが精一杯というなら仕方がないが、能力がないわけではないだろう。会津篇ではあれだけのものが作れたのだから、力はあるのだ。大河ドラマの方向性が途中からぶれてくる、というのはありがちだが、そして当初の構想が崩れると、あちこち話は破綻するし、スタッフのモチベーションも下がり、結果、ドラマの質に影響を及ぼすというのも考えられるが、ここまで落差がすごいのは空前絶後ではないだろうか。

いったい何があったのか、いつか知りたいものだ。10年ぐらい経ったら、誰か関係者が語ってくれないだろうか。「八重の桜」が崩壊したわけを。