窓の向こうに

月に数回映画館に通う程度の映画ファンです。自分が見た映画やドラマの感想を書いています。

蓄積される人、されない人

28歳で映画を7,000本見たと自称する人がいて、話題になったらしい。それだけたくさん見てもさして映画に詳しくないことから、釣りではないかという見方が大勢のようだったらしいのだが、上記の記事では、その真偽を追求するのではなく、この話題から、

世の中には「観たり読んだりした映画や本の内容を蓄積できる人」と「映画や本をただ消費するだけの人」がいる

と述べ、自分は後者だ、7,000本見たと言う人もそうなのではないか、と述べている。

これに興味を持ったのは、かねがね自分の映画に対する知識とか理解度に疑問(不満、不安)を持っていて、この記事を読んで「なるほど、僕は消費するだけの人なんだな」と納得してしまったからである。

自分に当て嵌めて考えてみると、この二つの分類や特徴に関するitottoさんの考察は、少々修正の必要がある。内容を蓄積できる、というのは、作品どうしの関連性を考察できるということではないかと思う。「クリント・イーストウッドが監督としてやりたいことは……」とか「1980年代の映画というのは……」みたいな視点を持てることだ。

あるいは、作品や映画そのものに関するもろもろの知識を持っていて、かつそれが有機的につながっていて、たとえば「あーこれは典型的な16ミリの映画だねー」みたいにわかると。

対する僕は、一応、観た作品はメモを取っているので、記憶を呼び戻すことはある程度可能である。観たそばから忘れる、というわけではない。が、作品同士の関連性がわからない。「ターミネーター」と「タイタニック」と「アバター」の監督がジェームズ・キャメロンだとは知っているけど、何の予備知識もなく「アバター」を観たら、ああこれはタイタニックと同じ監督なんじゃないかな、とは絶対に気づかないだろう。映画の背景知識といっても、ブラピとアンジーは「Mr. & Mrs. スミス」の共演をきっかけに結婚したんだって、みたいなゴシップを多少知っている程度で、映画製作に関わるようなことは何も知らない。どこかで見聞きしているのかも知れないが、つながっていない。

観た作品はわかる、10本観たら10作品の中身がわかる、ただそれだけ。100本観たら100作品についてバラバラに分かるというだけで、自分の中に積み上がっていくものがない。これは分析力の有無なんだろうと思う。面白いことに、僕という人間にそもそも分析力が欠如しているということなら、それはそれでわかるのだが、自分の中では、たとえば小説や漫画、音楽といった分野に関しては蓄積されていっているな、と感じるのだ。

たとえば小説、好きな作家の場合、文体やストーリーの構成についてある程度「その作家ならでは」というものを感じながら読んでいる。初めて読む時はわからないけど、面白いと思って同じ作家の作品を3冊、5冊と読むうちに自然と感じられるようになる。何冊も読んでいる作家であれば、作家名を知らずに新作を読んでも、誰が書いたかある程度当てられるのではないかと思う。

その程度には作家の特徴をつかんでいるからこそ、和田誠清水義範のパロディ(パスティーシュ)を読んで笑うことができるのである。ああこれは丸谷才一の物真似なんだな、確かに丸谷はこういう文章を書くよなと。筒井康隆の物真似っていきなり人が死んでんじゃねえよとか。

音楽はそこまで詳しくはないけど、というか、僕が多少なりともわかるのは極めて限られた分野だけど、どういう音楽が自分の好みかははっきり区別がついている。面白そうな曲を探すのに、オリコンチャートを毎週チェックして、1位から10位までの曲を順に聴いてみる、みたいなことは絶対にしない。

映画に関しては、オリコンチャートを順にチェックしているみたいなものである。だから、観る時は割とバクチであり、観終わったあとに「へーこういうタイプの作品も、自分は面白いと思えるんだ」などという発見が今でもある。

世の中にはふたつのタイプがあって、自分は映画に関しては消費するタイプなんだとわかったから、少しすっきりした。別に消費するだけの人が悪いとは思わない。安心して、映画を楽しく観ることに専念しよう。