窓の向こうに

月に数回映画館に通う程度の映画ファンです。自分が見た映画やドラマの感想を書いています。

穴山梅雪退場「真田丸」第5回「窮地」

信繁は混乱する安土城から松を救おうとするが……。徳川家康は「伊賀越え」を敢行。

出演

粗筋

本能寺の変が勃発し、信長・信忠死す。天下を狙う信長+抵抗勢力、という雰囲気だった戦国の地図が一気に塗り換わることになる。武田から織田に乗り換えて一安心と思った真田も窮地に立たされる。

家康は、京にとどまっているのは危険だが、逃げても追われるだけ、どうしたものかと思案を重ねる中、服部半蔵の協力が得られることになり、伊賀を越えることにする。ただし半蔵の手配も完璧ではなく、途中、何度か危うい目に遭う。穴山梅雪も家康に同行していたが、ここで家康と心中したくないと腰痛を理由に別行動を取ることに。が、結局穴山梅雪は襲われ殺され、家康は助かって岡崎城に戻る。

昌幸の元に本能寺の変の知らせが入る。信じられない話だがどうやら事実のようだ。このまま織田につくか、改めて上杉、あるいは北条につくのか。迷う昌幸。とにかく松の身が心配なので、佐助を急ぎ安土へ急行させる。

松についていった信繁は、本能寺の変の情報をつかむや、松を連れて安土を逃げ出すことに。が、安土には松だけでなく大勢の女子衆が囚われている。皆を連れて行きたいという松の強い意見に信繁も矢沢三十郎も小山田茂誠も断わりきれず、大勢を連れて逃げる羽目になった……

昌幸は上杉につくことを決意。さっそく弟の信尹(のぶただ)を上杉景勝の元へ送る。しかし上杉の返事は、受け入れはするが織田を叩くことはしない、というものであった。戦が長引き、上杉には織田に攻撃を仕掛ける余裕はなかったのだ。

今日の昌幸

明智光秀からの、味方につくようにという書状を持った使者がやってくる。使者は、これから信濃の国衆を順に回るというが、昌幸は使者を軟禁。それから国衆を集めて事態を説明し、この書状が自分のところへ来たということは、光秀は自分を小県の長と考えている、と話す。策士というか、こずるいというか。

今日の滝川一益

まだ信長の事件は伝わっておらず、昌幸や信幸相手に呑気に信長の話をするのだが、その話は「圧倒的な力を持つ者がいれば、戦を起こす意味がなくなる。そうすれば世の中から戦がなくなる。信長様が望んでいるのはそういう世だ」というもので、このセリフは心を打つ。誰もが自分の領地を守るため、より裕福になるため、戦は避けられないものと考えていた戦国時代に、こんなとんでもない理想を掲げていたとは……と、昌幸・信幸の目から鱗が落ちる

のちに家康がそういう世を実現するわけで、誰だって戦いくさの世の中より命を落とす心配のない世の中の方がいいに決まっている。けど、そういうことを戦国時代の大名たちは、本当に意識していなかったんだろうか? 誰が、いつからそういうことを考えるようになったのだろうか?

感想

戦国の一大事件「本能寺の変」がナレーションによる説明とほんの1〜2分の絵で終わってしまったため、ネットなどでは「ナレ死」などと喧伝されているようだ。しかしこれは当たり前だ。真田昌幸、繁信らに取って本能寺の変とは、「せっかく織田について一安心と思ったら、また混迷の戦国の世に逆戻り」という点が重要なのであって、戦そのものは関係のない話。関係ないことはさっさと済ませないと焦点がぼける。「お江」の時に関が原をあっさり片付けたのとは違う。この判断は正しいと思う。

信長死すの情報が拡散する様子(伝わらないことも含めて)の描き方が面白い。現代では、テレビやネットで事件は瞬時に伝わるが、文や口頭で伝えるしかなかった時代は、当然のことながら温度差がある。織田直下の家臣でありながら情報の伝わらない滝川、しかしその滝川から信長の野望を語られるなど……

伊賀越えは、大河史上に残る画期的なシーンとなった。なにしろ、ここまで臆病で小心者の家康が、かつていたであろうか! ここまで間抜けな服部半蔵がいたであろうか! でも現実は案外こんなものだったのではないだろうか。批判する向きもあろうが、自分には面白く感じられた。
(2016/3/14 記)