亀弥太の出奔の理由は?(2)/龍馬伝-23「池田屋に走れ」

京にいる土佐藩士に帰国命令が出たが、これに従えば捕縛されるのは明白。それを拒否して脱藩した者も何人もおり、望月亀弥太もその一人。当然、土佐藩から追われる身となった。坂本龍馬は、時間が経てば必ず情勢は変わると考え、それまで身の安全を確保するためと将来に向けての調査のため、こうした土佐脱藩浪士を蝦夷地へ派遣することにした。

今、京は燃えているのに、なんで蝦夷の田舎に行かなきゃいけないのか、とこの策に不満だった亀弥太は、長州藩の攘夷派と結びつき、池田屋にも顔を出して……という流れのはず。

池田屋事件のちゃんちゃんばらばらを描いてしまうと新撰組の話になってしまうので省いたのはわかる。が、亀弥太に関しては、彼が池田屋事件に関わっていたために神戸海軍が潰されるなど、龍馬や勝塾の人間にとって小さい事件ではないのだから、経緯に関してはもう少していねいに追う必要があったのではないか。

亀弥太はドラマでは龍馬の目の前で息を引き取ったが、実際には傷を負いながらも長州藩邸までたどりついた。が、長州藩は受け入れを拒否。それで自刃したのだが、長州藩が彼の受け入れを拒否したということも、結構重要な意味を持っているように思うのだが。

この時の両者の人数はいろいろ異説があるようだが、「池田屋事件」の数字を基にすると、新撰組は34名で、うち3名死亡、一名重傷。攘夷派志士は、新撰組の手にかかった者は、死亡7人、捕縛23人。翌朝の会津藩桑名藩らによる捜索も含め、最終的には16名死亡、20数名捕縛、脱出10名となっている。とすると、攘夷派志士は50名くらいいたわけで、それを下回る人数で制圧したのだから、新撰組の力はたいしたものだったわけだが、攘夷派志士は全員が斬り殺されたわけではない。恐らく新撰組の目的は捕縛であり、殺すことではなかったが、少人数のため余裕がなく、やむを得ず殺害に及んでしまった相手もいた……というところなのではないか。

とかくドラマでは一方的な殺戮だったかのように描かれることが多いため、触れておく。

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そうか、6月5日未明から6日にかけてのできごとだったわけだ! 御所の焼き打ちは、新撰組側の捏造という説もある。