雑感
脚本がどうにもならないほど駄作なのは今さら言うまでもない。突っ込むのに疲れたので、しばし休止。
この物語では羽柴秀吉が徹底的に悪者に描かれている。悪者というより、陰険でいやらしい小心者……とても後の天下人とも思われない、小物になっている。こういう秀吉は珍しい。
豊臣秀吉といえば、日本史上一、二を争う人気者だ。最下層の農民から知恵と才覚のみで立身出世を果たし、最高位まで登りつめたところに憧れるのか、百数十年にもわたって続いた戦乱の世を終わらせ、天下統一を成し遂げたことに対する畏敬の念か、小柄な体躯と猿に似た容貌で、愛嬌があり、偉くなっても庶民派のように思われているからか。とにかく、たいていの歴史ドラマではそれなりの好人物、大人物に描かれるものである。
考えてみると、信長が死んだあとの世の中を、織田家の視点で描いた作品は少ないのではないか。織田家から見れば、秀吉は織田家を乗っ取った天下の極悪人ということになるのだろう。この視点は新鮮で面白い。
織田信長の後を継ぐというのが、単に織田家の中だけの話であれば、信雄だろうが信孝であろうが、好きにすればいい。だが、当時の織田家は、天下統一を果たしたとはとてもいえないが、近畿周辺を掌握し、国内最大の勢力を持つ組織であったことは間違いない。それだけの家臣団の棟梁としてふさわしいのは一体誰か。織田軍をまとめあげ、これから四国、九州、あるいは関東、東北を攻め取っていかなければならない。それができるのは誰か、という話である。
秀吉は、当然、信孝や信雄にそれだけのことができるわけがないと思っていただろう。できる人が立たなければ、十万を超す家臣も、その家族も、そして領民も、みな不幸になるばかりだ。だから秀吉を中心にまとまるのが一番よい……と、大半の織田家臣は考えていたのではないか。正面から対立したのは柴田勝家だけだったことがそれを物語っていると思う(家康は織田の家臣ではないから別とする)。秀吉が頭になることを気に入らない人も少なからずいたと思うが、戦国時代に戻るよりははるかにマシ、と考えたのだろう。実際、この時もし織田家臣団が割れれば、戦国の世を初めから繰り返すことになりかねなかったはず。
面白いと思うのは、この構図は秀吉亡き後の徳川家康の行動とそっくりだということだ。家康も三成も、表面上は秀吉の子、秀頼に忠誠を誓いつつも、互いに対立を深めていく。そして家康は関ヶ原の戦いで石田三成を排除し権力を拡大させていくわけだが、これは賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討って織田家中のナンバー1となった秀吉とそっくりということになる。
秀吉が死んだあと、大阪城で実権を握るのは茶々こと淀君だが、なにせ女で戦の経験もなく、世間知らずもいいところであり、そのため家康の掌の上でいいように踊らされ、急激に弱体化した……。これが一般的な見方だろう。掌の上で転がされた例として、たとえば、秀頼が幼いために(いったん)家康が政治を司るものの、秀頼が元服したら、征夷大将軍の座は秀頼に譲ってもらえるものと淀はずっと信じ込んでいたといわれる。
しかし、少なくとも本作における茶々は、信長公亡き後の秀吉の行動をこれだけ目の当たりにしていたのだから、秀吉亡き後、家康がどういう行動を取るか、手に取るようにわかったはずだ。となると、関ヶ原のあと、茶々は何を考え、どう行動したのか。興味深い。また、今は何の力もないとはいえ、少なくとも秀吉に批判的という点で茶々、初、江ら三姉妹の見方は一致している。が、秀頼と家康が対立する時には、お江は徳川方である。その時、三姉妹の絆はどのように描かれるのか。実に興味深い。
そもそも、今回でさらに「秀吉キライ」フラグが立ってしまった。ここから茶々がどのような経緯で秀吉の側室になるのか、既に脚本は破綻している気がするのだが、きっと「あっ」と驚くロジックが用意されているに違いない。それを楽しみに、また来週も見ることにしよう。