ついに観た!「レ・ミゼラブル」

なかなか行きそびれていたのだが、ようやく観に行くことが出来た。レイトショーを観に行き、開始時刻の1時間半ぐらい前にチケットを買った時点で既にかなり席が埋まっていた。そして実際に劇場へ入ったら前方の数列を除いてほぼ満席状態。日本公開が12月21日だからもう一ヶ月以上経つのに、そしてレイトショーなのにこの人出は、過去にあまり記憶がない。人気があるのは間違いないようだ。

題名レ・ミゼラブル
原作ヴィクトル・ユゴー(小説)、アラン・ブーブリル/クロード・ミシェル・シェーンベルク(ミュージカル)
監督トム・フーパー
出演ヒュー・ジャックマンジャン・バルジャン)、ラッセル・クロウ(ジャベール)、アン・ハサウェイ(ファンティーヌ)、アマンダ・サイフリッド(コゼット)、エディ・レッドメイン(マリウス)、他
公式サイト映画『レ・ミゼラブル』公式サイト 大ヒット上映中!
制作英国(2012年12月21日日本公開)
劇場新百合ヶ丘:ワーナー・マイカル・シネマズ

雑感

初めから観に行くつもりだったため、できるだけ先入観を得ないように、事前情報を極力排除していた。そのため、いろいろと意外だった。いくらなんでもこんなに長いとは思わなかったし、ミュージカルだとも知らなかった! 知っていたら観に行くのをやめたかも知れないが、観て良かったと思えるので、やはり事前情報は注意が必要である。全く何の情報もなければそもそも観ようとは思わないわけだから、難しいところだが。

さて、感想をひとことで言うと……ひとことで言えるかな……キリスト教の人たちって、最後に神の御許に召されるといえばハッピーエンドになるという点で便利だなあと……罰当たりな感想。

「ああ無情」は小学生の低学年の頃に、少年少女文学全集みたいな本で読んだことがあり、恐らくその時は2〜3度繰り返して読んだだろうが、その後同じ本も別の翻訳も読み返すことなく40年以上経過している。しかしバルジャンはもちろん、フォンティーヌ、コゼット、ジャベル、マリウス、さらにミリエル司教にマドレーヌ市長、テルナディアなど名前がちゃんと出てくるので、意外と覚えているなあと自分で感心した。自動車の下敷きになった人を助ける場面でジャベールが目をキラリとさせるシーン。そうそう、刑務所では「起重機のジャン」と呼ばれていたんだよね。

杓子定規に法律を適用することしか考えず、人情も、バランスも何もわきまえない警察組織に、人生をめちゃくちゃにされた男の人生、という話だとずっと思っていた。コゼットの物語は、養父母の実子は可愛がられるのに自分は幼いころから女中代わりに働かされる、ある日お金持ちがやってきて引き取られていくというシンデレラストーリーと単純に考えていたが、実際にはかなり違うな。

まず大前提として、当時の社会体制や庶民の暮らしと切っても切れない内容なのだ。物語の前半で、工場で働くフォンティーヌを描写する場面で、一日仕事にありつけないと食べるものが買えず、それは即座に死を意味する、という説明がなされる。それが当時の下層階級の実態なら、コゼットはとにかく食と住が確保されているだけで十分に幸福な待遇を受けていることになる。テルナディエ夫妻は小悪党かも知れないが、少なくともコゼットに客を取らせようともしなかったわけだから、善人だったのだ。

マリウスたちが決起したいきさつも、その後日譚も、全く理解できないものだったが、このあたりはサラリと流すか、フランスの近代史をきちんと勉強するか、どちらかしかないか。

コゼットがマリウスと結婚することになった時、ジャンはマリウスに自分の過去を打ち明け、自分はいつ捕まるかわからない、自分が捕まればコゼットに迷惑がかかる、だから自分は旅に出ると姿を消してしまう。が、これは原作とは違うはずである。自分の記憶では、ジャンの過去を知ったマリウスは、ジャンとの付き合いに距離を置くようになり、コゼットにもジャンとあまり付き合わないように厳しく言いつける。コゼットと会えなくなったジャンは急激に老いていく。ところがテルナディエのタレこみにより、ジャンが自分の命の恩人であることを知ったマリウスは、ジャンに取った態度を後悔し、「コゼット! すぐにお父さんのところに行くぞ! そして頭を下げて一緒に暮らしてもらうよう頼むのだ!」父に会える、一緒に暮らせると知ったコゼットは大喜びし、ジャンの家に行って「お父さま! さあ一緒に私たちの家に行きましょう!」と告げるのだが。

「コゼット……わたしは……お前の家には行かれないのだ……これから、もっと遠くへ旅立たなくてはいけない……コゼット、マリウス……もっと近くに来て、顔をよく見せておくれ……お前たちに会えてよかった……」と言ってこと切れる。こっちの方がいいなあ。映画版だとジャンが強過ぎる。でも、原作ではジャンが死ぬ時はミリエル司教を思い浮かべるだけのはずだが、映画ではフォンティーヌが現われた。これはいい改変だったかも。

レ・ミゼラブル~サウンドトラック

レ・ミゼラブル~サウンドトラック

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さらに告白するなら、ミュージカル映画には何となく偏見がありました。俳優が突然歌い出すリアリティのなさ。「台詞が歌」って、映画としてどうなの、と何か入りこめないものがあった。

同じ理由でミュージカルに興味がなかったし、実はこの映画を観終わっても、これがミュージカルである必然性があったか疑問に感じている。瀕死の重病人が歌を歌うってリアリティなさ過ぎだろう。あんな歌を歌わなければ、ジャンはあと一週間くらいは生きていたんじゃないか、とか。

ミュージカル・ナンバーの多くが、実は歌う本人たちのモノローグ=即ち悩み、絶望し、苦悩する心の内面の吐露=が多い事に気が付いた。(略)ミュージカルでない、普通のドラマ作品であるなら、誰もいない所で、自分の心に浮かぶ思いを声に出して喋ったりしてたらヘンである。(略)小説は、登場人物の心の内面も文章で表現出来るという利点がある。「彼は思った。云々…」とか、一人称の場合特に「私は考えた…」、等の表現が小説にはよく登場する。小説は面白かったのに、映画になると面白くなくなったりするのは、こうしたハンディが映画にはあるせいかも知れない。

全く同じ理由により、自分の場合は小説より映画やドラマの方がいい、と思うことが多い。人間の感情なんて、たとえ自分の気持ちであっても、かくかくしかじかですと説明できる方が少ないのではないか。映画やドラマでは、そこを役者の仕草とか、表情とかから、こういう気持ちなのではないか、こういうことを感じているのではないかとあれこれ想像するところに面白味がある。小説で、たとえば「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」などとあっさり書かれると、拍子抜けというか、要は面白くもなんともないのだ。*1

歌による感情表現も、同じリスクがあったように思う。本作の批判ではなく、表現の手法に関する一考察として。

*1:ちょっと突っ込んで考えると、本当にメロスはこんな風に理路整然と怒ったのか? といえば、違うと思う。王の圧政の話を聞いてむらむらと憤怒に駆られ、後先を考えず城に向かっただけだろう。なぜ王を除かなければならないのか? 除けば解決するのか? メロスに除けるのか? など、何も考えていなかったはずだ。実際、城に向かう途中であっさり捕まってしまうわけだから。物語の冒頭としては、短くリズミカルで、話に引き込むいい文章なのだが、感情表現としては説明のし過ぎで「正し過ぎる説明は間違っているのと同じでございます」だ。