太河ドラマに期待すること その2

歴史ドラマでは、登場人物の行動規範や感情の起伏などは、その時代その時代の社会常識や倫理規範に則っているのは当然である。……と思うのだが、少なくとも昨今の大河ドラマを見る限りでは、この点はあまり重視されていないか、意図的に無視される傾向が感じられる。

その時代の価値観がどのようなものであったのか、正確に推測するのが難しいのはわかる。また、当時の価値観が現代のそれとずれ過ぎて、意味が分からないとか、生理的に受け付けないとかいうようなことがあっても娯楽作品としてはまずいから、多少のアレンジが必要なのもわかる。言葉と同じで、平安時代にしろ戦国時代にしろ、当時の言葉をそのまましゃべられたら意味が通じないのだ(「タイムスクープハンター」ではできるだけ当時の言葉を再現し、かつ、字幕をつけるという工夫をしていたが)。

本来なら直接口をきけるはずのない高貴な方と下級武士が、いちいち間に人を何人も挟んで伝言ゲームをしていたら話が進まないから、直接会話をするシーンを設定するのもわかる。閣僚会議に女が口を挟んでくるのも致し方ない面がある。人権などという言葉はなく身分の違いが当たり前の時代にあっては差別の実態をありのままに描いたら、現代劇として不適切なのは言うまでもないこと。

だからといって、戦国時代の武士が、「戦はイヤだ」「戦のない世を作りたい」「人の命は大切」などと、本気で思ったり、まして為政者に対してそう口にしたりするというのは、やはりおかしいと思うのだ。

三年前の大河では、世の中を知らない箱入り娘がそのような発言を繰り返し、顰蹙を買ったが、あの女には、「お前が着ている着物は、お前が毎日食べている食べ物は、どうやって手に入れたものか、考えてみよ」と説教すれば済む話だと思っていた。しかし天下人すら一目置く人物の望みが、加増でも出世でもなく、戦のない世を作ること、というのはピントがずれている気がする。

言葉遣いや所作も含めて、登場人物が現在と違う価値観で動いている、その違いを楽しむのが歴史ドラマの醍醐味だと思う。なるほど当時の人はこんな風に考えるのか、と気づかされるのは面白いし、これはこの時代だから許されたけど、今ならあり得ないね、と再確認できるなら、それも歴史ドラマの存在価値なのではないか。

なんでも人を殺せばいい、奪えばいい、というのは現代の倫理にはそぐわない。だからといってそれで成り立っていた時代の人の行動まで、現代の倫理で動かしてみたところで、何も見えてこないと思うのだ。

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