窓の向こうに

月に数回映画館に通う程度の映画ファンです。自分が見た映画やドラマの感想を書いています。

NHK大河第37回「過激な転校生」

今日の見所

熊本バンド登場。

粗筋

熊本洋学校で強い信仰のゆえに周囲から迫害を受けた人たちが、同志社に入学したいと言ってくる。覚馬はあまりいい顔をしなかったがジョーは「困っている人をほっておけません」と入学を許可する。

しかし、彼らはどんでもない連中だった。学問のレベルは開校したばかりの同志社の人たちより数段上で、そのことを鼻にかけ、できない生徒をバカにし、八重を鵺だと笑い者にし、さらに教師一年生のジョーまで見下す始末。ついに改革案なるものを提出するに及ぶ。それはジョーの退陣をも要求するものだった。要求が受け入れられなければ自分たちが同志社をやめるというのである。ジョーは涙を流して自らの教育理念を訴えるのだった……

「私が目指す学校は、学問を教えるだけでなく、心を育てる学校です。私は日本のために奉仕することができる国を愛する人間を育てたくてこの学校を作りました。国とは国家のことではありません。国とは people、人々のことです。国を愛する心とは、自分を愛するように、目の前にいる他者を愛することだと私は信じています。自分自身を愛するように、汝の隣人を愛せよと。型通りでなくてもいい、歩みが遅くてもいい。気骨ある者も大いに結構。良いものは良い。しかし己のために他者を排除する者は、私は断固として許さない。我が同志社はいかなる生徒も決して辞めさせません。それにはあなたたちも含まれてます。その信念がある限り、私が辞めることもありません。どうか互いを裁くこと無く、共に学んでいきましょう」

八重は今回からジョーの要望によりジョーのことを「ジョー」と呼び捨てで呼ぶようになる。夫婦は平等だからというのがジョーの言だが、そのジョーは八重を「八重さん」とさん付けで呼ぶのは平等ではないのか?

雑感

熊本バンドの連中のあまりの間抜けぶりに笑えた。ちょっと成績がいいからと天狗になり、他者を見下すのは誰しも(大人になっても)経験のあることで、それをただちには責められない。また自分の将来がかかっていることだから、あんな教師でいいのか? この学校でいいのか? と真剣に考えるのはむしろ当然。入学させていただいたのですから、一切文句は言いません、というのは正しい姿勢ではない。ただし、学校長の妻で生活全般の世話になっている八重を笑い者にするのはいただけない。キリスト教では礼儀正しくせよとは教えないのか?

また、要望書の提出もいいだろうが、同志社は私学である。つまり私物である。所有者は誰かといえばいろいろなスポンサーがいるのだろうが、多くはアメリカ人で、日本で学校長を勤めるジョーが代理権者と考えるのが妥当である。つまり同志社はジョーのものなのである。そのジョーに「辞めろ」と迫るのは全く筋が通らない。また、説得のための交渉材料が、「聞いてくれないなら僕たち辞めちゃうよ〜」というのも笑える。入学させてくれと頼んできたのは彼らの方である。辞めて困るのは彼らだけであって、同志社の側は誰も困らないのである。なぜこんなことがブラフになると思ったのか。

少なくとも、彼らが熊本で迫害を受けていたのは、信仰ゆえではなく、この無礼で驕りたかぶった排他的な態度によるものだということがよくわかった。

しかし八重は鵺呼ばわりされても一向に動じず、にこやかに「新島鵺でございます」と答えるところがいい。八重の怒りは、国を盗られるとか、身内が傷つけられるとかいうときに沸点を超えるが、幼いころから変わり者だと言われて育った八重にとって、鵺呼ばわりされる程度は可愛いものなのだろう。このあたりは熊本バンドの連中とは人間のスケールが違うところだ。

世の中は廃刀令が公布され士族の反乱が相次いでいる。そもそも「武士」の身分がなくなって士族になったことも、その氏族が迫害を受けていることも、作中では全く語られなかったので、いきなり廃刀令→士族の反乱といわれても唐突だが、そこはかつて学校で教わった歴史を脳内補完して眺めている。が、竹村幸之進が廃刀令に対し「武士の魂を奪うとは」というセリフが引っ掛かる。これについては稿を改めたい。
(2013/09/22 記)

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