窓の向こうに

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いろは丸事件の真実/龍馬伝-42「いろは丸事件」

雑感

海援隊の「いろは丸」が紀州藩の「明光丸」と衝突して沈没した。どちらに非があるかどうかの問題ではなく、この時代の普通の考え方として、徳川御三家のひとつである大藩・紀州が相手であれば、泣き寝入りするしかないところである。それを、交渉の挙句、みごと8万3千両の大金を賠償金としてせしめた、という話。

龍馬と紀州藩との交渉は、正直言えばかなり物足りなくもあったのだが、このドラマ的にいうと、第三部まではこうした内容は正面から描いてこなかっただけに、第四部での硬派な姿勢は評価したい。

既に亀山社中ではなく海援隊になっていた、つまり、脱藩浪士の集まりでなく正式に土佐藩の一組織になっていたわけだから、海援隊紀州藩に文句を言うということは、紀州藩(55万石)対土佐藩(24万石)の争いに発展する可能性がある。だが、これは日本初の蒸気船同士の事故である。これから何度も同じような事故が起きるが、そのたびに必ずこの事故の結果は参照される。その時、土佐藩が泣き寝入りしたと記録に残っていいのか……と後藤象二郎を説得して談判に臨んだ。

談判の場においては当然、龍馬側と紀州藩の言い分は食い違う。そして、食い違う以上これ以上話し合っても時間の無駄、裁定は奉行所にしてもらおうという紀州藩に対し(幕府の組織である奉行所が裁定したら紀州に有利になるのは火を見るより明らか)、万国公法を持ち出し、イギリス海軍提督を引っ張ってくる。これで勝敗は決した。

交渉は、本来はこれからで、見張りを明光丸は「立てていた」と言い「いろは丸」は「いなかった」という。イギリス海軍提督はこれをどうやって判断したのか、物証がなければ証言によるしかないが、関係者に紀州に有利になるような発言を強要することなど、紀州藩にはお茶の子だっただろうし、万国公法を持ちだしたからといって即、海援隊に有利というわけでもないのだが、テレビではそこまでは描かれなかった。仮に「明光丸」の側に重大な過失があっとされても、紀州側は賠償金の額を下げてもらうよう交渉する手もあったはずだが、龍馬側の言い分がそのまま通ったようである。

8万3千両は船の代金+積荷の代金+遺失利益で、金額の算定は弥太郎が行なったことになっている。遺失利益の概念のない当時、海援隊の隊員たちは弥太郎に「ふっかけ過ぎじゃ」とからかうが……

船の価格は、42,500両というのが通説だったが、龍馬伝が始まった2010年4月23日、当時の契約書が愛媛県大洲市によって発表され、実は10,000両だったことが明らかになった。また積荷に関しても、近年の調査でいろは丸からは龍馬側が主張した銃火器は見つかっていない。賠償額は、相手方が値下げ交渉をしてくることを見越して高くふっかけたところが、それが通ってしまったということだろうか?

事件が起きたのは1967年4月、交渉が始まったのは5月。テレビでは5月中に決着がついたかのように説明されたが、ネットの記事などを見ても、いつ決着がついたかはよくわからない。(事故現場の)瀬戸内海から(交渉を行なった)長崎に移動するだけでも何日もかかる当時の時間の時間の流れの中で、そんなにあっさりと話がついたとは思えないのだが、現代の裁判が異常に長いのだろうか?

また、この件で以前から疑問なのは、紀州藩は実際にこの賠償金を払ったのか、ということだ。いくら大藩・紀州とはいえ、すぐに用意できる額ではなかろうし、努力して用意したくなるたぐいのものでもないだろう。この年の10月には大政奉還、11月には当事者の龍馬が死に、翌年1月には鳥羽・伏見の戦いが起き、4月に薩長軍による江戸城の占拠、一橋慶喜の蟄居などと続いていくわけで、「金を用意するからちょっと待っててくれ」などと言っている間にうやむやになった可能性は高いと思うのだが、不明である。

いずれにしても、強国を相手にしても少しもひるまず、あらゆる手段を講じて交渉を行ない、見事勝ち取った龍馬の姿勢は、昨今の尖閣諸島の問題で中国に対して弱気になっている日本の政治家にぜひ見習ってもらいたいものだ。

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