窓の向こうに

月に数回映画館に通う程度の映画ファンです。自分が見た映画やドラマの感想を書いています。

NHK大河第6回「会津の決意」

出演

粗筋

井伊直弼が失脚して一橋慶喜松平春嶽が返り咲く。水戸公を討つのを止めた松平容保の存在感に気づいた慶喜と春嶽は、京都守護職を任せることにする。これは、会津なら力になるだろう、という意味もあるが、会津っぽに政局に口を出されては困るから、大変な仕事を押し付けて力を削ごう、という意味合いもあったと思われる。必死で断わる容保だが、春嶽から土津(はにつ)公御家訓(会津家訓十五箇条)を引き合いに出されては断わるすべがなかった。

「得心がいきません。此度のことは会津の命運を左右する二股道にございます。恐れながら殿は、会津を滅ぼす道に踏み出されてしまわれた」
「大君の儀 一心大切に忠勤に存ずべし 二心を懐かば我が子孫にあらず。徳川御宗家と存亡をともにするのが会津の務め。是非に及ばぬ! この上は、都を死に場所と心得、御役目を全うするより他はない。みな覚悟を定め、わしに力を貸してくれ」

八重は道場で薙刀の稽古に励む。知り合いの二葉が嫁に行くことになり、八重もそろそろそういう年齢であることが匂わされる。道場での稽古では双葉より強かった八重だが、最後の立会では双葉に一本取られた。二葉は言う。梶原平馬が京に行くことになり、自分もついていくことになった。京では何があるかわからない。いざとなれば自分も薙刀で家を守らなければならない。それが武士の妻だ。今日勝てたのは、自分にその覚悟ができたから――

感想

いつの間にか八重は17歳になっていた。

容保が京都守護職を拝命されると、国元では頼母をはじめ家臣が皆大反対。この時の容保とのやり取りは、「八重の桜」屈指の名シーンであろう。政治家同士がやりあって政策が決まっていく過程は、なぜか大河で正面から取り上げられることは少ないが、こういう場面が見たかったんだと思う。

会津家訓十五箇条は、第一回でも取り上げられたが、NHK公式サイトにも、初代会津藩藩主の保科正之とともに詳しい説明がある。

ここには下記のような説明がある。

徳川幕府の未来永劫の安泰を願ってつくったであろうこの家訓が、200年後、結果的に会津を滅ぼす要因となることなど、このときの正之にどうして想像できたでしょうか。

この説明には異論がある。会津藩の始まり、三代将軍家光の時代は、徳川将軍家の威光が最も轟いていた頃。反徳川勢力は一掃され、何よりようやく戦のない平和な時代が訪れたことで人心は安定し、この世の中が長く続けばいいと武士も庶民も思ったであろう。徳川将軍家に忠勤を尽くすのは当然であり、逆らうことを考えた藩主はほとんどいなかったはずである。それなのになぜ、この家訓には「他の藩を見て判断するな」「将軍家を裏切る藩主があればそれは私の子孫ではないから、家臣はそれに従うな」などという一文がわざわざ入っているのであろう。保科正之はいったいどういう事態を見越してこのような文言を残したのだろうか。

今は将軍家の力が強いが、時代が変わればパワーバランスは変わる。将軍家の力が弱まり、将軍家に匹敵するような反徳川勢力が現われる可能性はある。その時、各藩は、両者の力関係を様子見しながら、強い方につこうとするだろう。そうなった時でも、他藩の動向には関係なく、会津は将軍家につくのだと正之は言ったのだ。諸藩が反徳川につく時は徳川が滅びる時だが、その時も徳川宗家と命運を共にせよと言ったのである。会津家訓はそういう意味だろう。

200年後に、正之が恐れた事態が起きたが、会津藩の面々は時代を超えて正之の指示に従い、本懐を遂げたのである。官軍の側だって大勢死者は出たし、明治維新のあとの廃藩置県でどのみち藩はすべてなくなった。そして白虎隊の名は今も語り継がれている。これらを「悲劇」とか「不幸」とかで括るのは、違うと思うのだ。

ところで、ドラマとしては、上士たちが京都守護職を引き受けるかどうかで冷や汗たらたらの緊迫した時間を過ごしている時、八重たち下っ端の連中は、誰がお嫁に行くだの、今度は誰の番だの、ほのぼのとした話題で明るく過ごしている。このギャップが交互に描かれた後、「ご家老の嫁で生涯安泰」と思われていた二葉が、悲壮な覚悟で京に行くことになり、覚馬は妻子を置いてやはり京に行くことになるなど、両者が交差していく……という非常にうまい作りになっていた。

龍馬伝」も「江」も最初の数回は面白かったから、油断できないぞと思っていたのだが、ここへきて、今年の大河も非凡な作品になりそうだとの手応えを得る。

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